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第三章:自分の翼

Author: 佐薙真琴
last update Last Updated: 2025-12-03 18:25:17

 独立から三ヶ月が経った。

 夕夏の銀行口座には、会社員時代の貯金と、フリーランスで得た報酬が入っていた。決して多くはないが、一人で生きていくには十分だった。

 しかし、夕夏が求めていたのは「生きていく」ことではなく、「成長する」ことだった。

 彼女は、毎朝六時に起きた。コーヒーを淹れ、窓を開けて新鮮な空気を吸い込む。それから、三十分のジョギング。体を動かすことで、頭がクリアになる。

 八時から仕事を始める。最初の一時間は、スキルアップの時間だ。オンライン講座で、最新のデザインツールを学ぶ。Adobe XDでのプロトタイピング、Figmaでの共同作業、Blenderでの3Dモデリング。

 九時から十八時までは、クライアントワーク。現在、夕夏は五つの案件を同時進行している。飲食店のメニューデザイン、中小企業のWebサイトリニューアル、スタートアップのブランディング、出版社の書籍装丁、そして地域活性化プロジェクトのビジュアルアイデンティティ。

 夜は、自主制作の時間だ。夕夏は、毎日最低一時間、自分の作品を作る。それは誰からも依頼されていない、純粋に自分が作りたいものだ。

 今、夕夏が取り組んでいるのは、「都市の孤独」をテーマにしたビジュアルシリーズだった。東京という巨大な都市で、人々がどれだけ孤独を感じているか。しかしその孤独が、必ずしも悪いものではないということ。孤独の中にこそ、自分自身と向き合う時間がある。

 夕夏は、そのシリーズの作品を、InstagramとBehanceに投稿し始めた。反応は、予想以上に良かった。

「このシリーズ、すごく共感します」 「孤独って、こんなに美しいものだったんですね」 「あなたの作品に勇気をもらいました」

 コメントを読むたび、夕夏の心は温かくなった。これが、デザインの本当の力なんだ。

 十二月に入り、夕夏は大きな決断をした。自分の事務所を持つことだ。

 これまで、夕夏は自宅で仕事をしていた。しかし、プライベートと仕事の境界が曖昧になり、効率が落ちていた。何より、クライアントと対面で打ち合わせをする場所が欲しかった。

 夕夏は、渋谷から二駅離れた、中目黒のシェアオフィスを見つけた。月額五万円。個室ではなく、オープンスペースの一角だが、窓があり、採光が良い。

 そして何より、そこには様々なクリエイターが集まっていた。Webデザイナー、イラストレーター、ライター、映像作家。みんな、夕夏と同じように、自分の道を歩いている人々だった。

 シェアオフィスに入居した初日、夕夏は隣の席の女性に声をかけられた。

「はじめまして。イラストレーターの佐藤真琴です」

 三十代前半と思われる女性は、明るい笑顔で手を差し出した。

「小暮夕夏です。グラフィックデザイナーです」

「わあ、デザイナーさんなんですね。良かったら、今度一緒にランチでもどうですか?」

 真琴の気さくな態度に、夕夏は久しぶりに心を開いた。

 その日から、夕夏と真琴は頻繁に話すようになった。仕事の相談、業界の情報交換、そして人生についての雑談。

「ねえ、夕夏さんって、なんで独立したんですか?」

 ある日のランチで、真琴が聞いた。

 夕夏は、少し考えてから答えた。

「自分の人生を、自分で決めたかったから」

「深いですね」

「真琴さんは?」

「私は、好きなことで生きていきたかったから。それだけです」

 二人は笑った。理由は違っても、目指す方向は同じだった。

 一月、夕夏に転機が訪れた。

 それは、あるスタートアップ企業からの依頼だった。企業名は「GreenTech Solutions」。環境技術を開発するベンチャーで、創業二年目だという。

 依頼内容は、企業のビジュアルアイデンティティの全面刷新。ロゴ、Webサイト、名刺、パンフレット、すべてを一貫したデザインで統一したい。

 予算は百五十万円。夕夏がこれまで受けた案件の中で、最大の金額だった。

 プレゼンのため、夕夏はGreenTech Solutionsのオフィスを訪れた。場所は、目黒のベンチャー向けシェアオフィスビルだった。

 受付で名前を告げると、すぐに担当者が現れた。

「小暮さんですね。お待ちしていました。代表の柊が応対いたします」

 会議室に通されると、一人の男性が立っていた。

 柊一樹。三十五歳。GreenTech Solutionsの創業者でCEOだという。

 紺色のジャケットに白いシャツ、ジーンズという、スタートアップらしいカジュアルなスタイル。しかし、その目は鋭く、知性に溢れていた。

「はじめまして、小暮さん。あなたのポートフォリオ、拝見しました。素晴らしいですね」

 柊の声は、落ち着いていて、誠実さが感じられた。

「ありがとうございます」

 夕夏は、緊張しながらも、持参したプレゼン資料を開いた。

「今日は、御社のビジュアルアイデンティティについて、私の提案をお持ちしました」

 夕夏は、一週間かけて作成した資料を説明し始めた。

 GreenTechのコンセプトは「技術で地球を癒す」。夕夏は、そのコンセプトを視覚化するため、三つのキーワードを設定した。

Growth(成長):植物が芽を出し、成長していく様子

Innovation(革新):伝統的な形を破り、新しい形を生み出す

Harmony(調和):自然と技術の共存

 ロゴデザインは、円と三角形を組み合わせた幾何学的な形だった。円は地球を、三角形は成長を表す。色は、深緑と明るい黄緑のグラデーション。自然の生命力と、技術の希望を表現した。

 夕夏のプレゼンが終わると、柊は静かに拍手をした。

「完璧です。まさに私が求めていたものです」

「本当ですか?」

「ええ。あなたは、私たちの理念を深く理解してくれている。単なるデザインじゃない。私たちの存在意義を、視覚化してくれた」

 柊の言葉に、夕夏の心は高鳴った。これが、デザインの本当の価値なんだ。

「では、契約をお願いできますか?」

「もちろんです」

 その日、夕夏は人生で最大の契約を結んだ。

 しかし、それ以上に大切なことがあった。柊一樹という人物との出会いだった。

 プレゼンの後、柊は夕夏をランチに誘った。

「これからビジネスパートナーになるんです。お互いのことを知っておきたいので」

 近くのイタリアンレストランで、二人は向かい合って座った。

「小暮さんは、なぜデザイナーになったんですか?」

 柊の質問に、夕夏は正直に答えた。

「最初は、美しいものを作りたいという単純な理由でした。でも今は、デザインで人の心を動かしたい。世界を少しでも良くしたいと思っています」

「素晴らしい理念ですね。私も同じです。技術で世界を良くしたい」

「柊さんは、なぜ環境技術の会社を?」

「大学で環境工学を学んでいた時、気候変動の深刻さを知りました。このままでは、地球は持たない。誰かがやらなければいけない。それなら、自分がやろうと思ったんです」

 柊の目は、真剣だった。それは、自分の信念に忠実に生きている人の目だった。

 夕夏は、その目に、かつての自分を見た。情熱を持って、何かを変えようとしていた、若い頃の自分。

「でも、簡単じゃないでしょう? スタートアップは」

「ええ、毎日が戦いです。資金繰り、人材確保、技術開発。すべてが課題です。でも、だからこそやりがいがある」

 柊は、そう言って微笑んだ。その笑顔には、疲れもあったが、それ以上に希望があった。

 ランチの後、二人は別れた。しかし、夕夏の心には、何か温かいものが残っていた。

 それは、久しぶりに感じる「誰かと繋がった」という感覚だった。

 慎一郎との関係が終わってから、夕夏は人を信じることに臆病になっていた。特に、男性との関係には。

 しかし、柊は違った。彼は、夕夏の仕事を評価してくれた。彼女の理念を理解してくれた。そして何より、彼自身が誠実だった。

 その夜、夕夏はシェアオフィスで遅くまで作業をした。GreenTechのビジュアルアイデンティティの詳細を詰めていく。

 作業をしながら、夕夏は気づいた。自分が、また笑えるようになっていることに。

 慎一郎と別れた時、夕夏は笑い方を忘れていた。毎日が灰色で、感情が死んでいた。

 しかし今、彼女の心には色が戻っていた。仕事への情熱、新しい出会いへの期待、そして自分自身への信頼。

 小暮夕夏は、灰の中から蘇った。そして今、自分の翼で飛び始めていた。

 まだ高くは飛べない。風に煽られて、ふらつくこともある。しかし、確実に前に進んでいる。

 それが、何よりも大切なことだった。

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